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臆病者は踏み出せない 2019-08-18

臆病者はいつまでも臆病者だ(性格補正不可)

私はずっと臆病者である。それは、生まれたときからそうなのかもしれないし、或いは何かの出来事に起因して後発的に臆病者となったのかもしれない。どちらにしても、臆病者である事実には変わりはない。

だから私はいつも「一歩」が踏み出せない。踏み出す前に立ち止まり、立ち止まったままでいるのである。そしていつも、踏み出せないままに時間切れで終わる。そして後悔する。

わかってはいる。しかし、どうしても一歩が踏み出せない。怖い。失敗の経験があれば、なおさら強く感じる。その失敗も、失敗から成功に繋がればまだ傷は浅いが、それが失敗を連鎖的に呼ぶものであれば、それ以上は先に進もうとは思えなくなってしまう。学習性無力感である。

「一度失敗すれば、その先もまた失敗が続く」ということが、世の理的なもので存在していれば、おそらくその失敗から逃れる方法は少ない。通常以上の力で失敗を捻じ曲げるか、或いは逃げる。だが、気力がない中で捻じ曲げられるほどの力を出せるとは思えない。したがって、逃げることが多いかと思われる。

そして一度逃げれば、そこから崩壊が始まる。いわば逃げ癖なるものを強制的に習得して、逃げることを繰り返すようになる。たとえそれがどんな理由であれ、「逃げればいい」という思考が脳を支配する。この結果、一度道を外れたら戻れなくなる状態を、自らが作ってしまう。ドロップアウトした人がまともな道を歩めなくなるのは、社会的問題に加えて、自身の問題にも繋がっているのかもしれない。原因は両方にあったようだ。

 

だが、その状況から抜け出すことは必須である。でなければ、まともな人生は歩めない。しかし抜け出そうにも、やはり「臆病」だから、その先に行けない。

もしかしたら、一歩を踏み出すことはそれほど難しいものではないのかもしれない。また、一歩を踏み出さない合理的な理由に「臆病」を使っているのかもしれない。理由をつけることで、安心したいだけという、人間の屑な思考もありえる。

そして実際、私はその状況に甘んじている。「臆病」という理由をつけて、動くことをしない(恐れている)。正確には、動きたくないし、そっちから来い的思考がある。これは流石にひどいかもしれない。

そう思うと、やはり私は臆病者であり、そしてまともにすら生きられない人間の屑なのだろう。一歩が踏み出せない(踏み出さない)ことによる停滞は、徐々に私を蝕んでいく。変えようにも、意識の問題と言えばそれまで、というくらいに進展しない。

 

だが、このまま、変わらないまま、生きていくのは嫌である。

 

 

だから、3ヶ月以内に、まともな就職先を探して、勝負を決めることにする。

 

エージェントの使用を決めたが、今度は「うまく立ち回る側」として、真面目にやってみる。それでうまくいかなければ、多分ジャップから立ち去る気がする。それくらいの覚悟がなければ、きっとうまくはいかない。

 

臆病なら臆病なりに、最初で最後の一歩を踏み出して戦ってみる。

 

運命は自力で切り開くから、それじゃあ、また。

 

今回の一言

仮に消極的選択で起業やフリーランスを選ぶことになったとき、自分は社会不適合者だと思う。