弱い自分 2018-03-18
自分が嫌いになってきた。
自分の情けなさと、臆病で先に進もうとしないことに苛立ちを覚え、そしてこのループである。救いようのない人間になりつつあるが、それを実生活上の表には出していない。つまり、「健康な」人間を演じている。この時点で嘘をついていると言えるかもしれない。
それは結局、人間として「弱い」からかもしれない。ここで言う「弱い」の定義は一般の辞書的意味合からは外れるもので、恐らく支離滅裂な文章になるだろう。それでも、書けば何かが分かる気がする。
弱い自分だから
「弱い自分だから」
言い訳に使えそうなフレーズが思い浮かんだ。弱いと、その弱い部分を見せないために、言い訳として使って逃げ道を作ったり、「弱くない自分」を作ってそれを表に出しているのだろう。
そうなると、弱いと嘘をつくことにも繋がるのかもしれない。そして嘘を隠すために嘘を言い、それによって嘘で塗り固めた自分ができ上がってくる。
これはもう「自分」とは呼べない気がする。「自分」ではなく「他人」になってしまっている気がする。
そして本当の「自分」は何処か遠くか、或いはコンクリートで囲まれた絶壁の中にでもいるのだろう。そして、もう二度と出てくることはない。
改善策があっても一歩を踏み出せない
一度弱い自分になってしまうと、一歩を踏み出すことがかなり億劫になり、その場に立ち止まってしまう事が多い。
検索すれば幾らでも改善策は出てくるが、その策を実行しようとしたとたんに足がすくみ、立ち止まってしまって結局改善できないまま終わってしまう。そんなことが多々ある。
そしてそれに苛立ちを覚えてさらに自分が嫌いになっていく。やろうとしたことが全て裏目に出てしまうというどうしようもなさに、それ自体どうしようもなくなっていく。
恐らくはそんな状況に甘んじているのかもしれない。それに苛立ってさらに嫌いになる。自己分析はある意味プロなのに、行動に関しては全くの素人のような気がする。
そして、何もしたくなくなる。
いっそのこと、「他人」になる?
逆に言えば、「他人」になるのは上手い人間になるのかもしれない。しかしなったところで名前やら何やらを全て変えることは出来ない。トム・クルーズ並みの変装も出来ない。そう考えたら意味はないような気がする。
ただし、「他人」になることで「自分」が生きやすいのなら、それでもいいのかもしれない。今は。それで将来に影響が出たとしたら、もう救いようがないが。
本当は「他人」を「自分」に上書きして、その「他人」を「自分」にしたい。
結局のところ、これがしたい。たぶん。
それじゃあ、また。
ちなみに、今日の気持ち
仕事中は何も考えずにいられた。終わると死にたい気持ちが戻ってきた。